色々な面白い教科書を出版されている国松淳和先生。
今までいくつかの本を紹介してきた。
今回紹介するのは不明熱についての教科書。
この教科書から「わからない」ことの価値について考えてみたい。
不明熱中の不明熱
一般的に不明熱の診療というと「隠れた原因を見つける」ことが目的である。
しかしこの教科書ではそれだけでなく、2種類の不明熱が扱われている。
①アプローチが不適切で、本来不明熱ではない発熱が不明熱とされる
②原因が不明なため、未知の事柄への対処を強いられる
①は一般的な「見逃されている隠れた原因」があるパターンである。
そしてもうひとつ②色々調べても原因がわからない謎の病態というものもあるようだ。
これを國松先生は「不明熱中の不明熱」と呼んでいる。
検査のもれやアセスメント不良といったものは当然除かれて、複数の医療機関で濃厚に精査されてもどの疾患にも分類されないものがある。
筆者はこれを「不明熱中の不明熱」と呼んでいる。
我々は、どんな物事にも必ず原因があると考えがちである。
しかし現実的には、どうしてもわからないことがある。
むしろ「わからない」とわかることが重要なのだ。
この点に踏み込んで、わからない不明熱の対応についても記載されているのが、不明熱レジデントマニュアルの優れた点だと思う。
わからないと言える優秀さ
このようにわからないことを明確に述べるのは、実は簡単ではない。
感染症内科の岩田健太郎先生は書著の中で、本当に優秀な人は「できることとできないことの境界線がはっきりしている」と書いている。
経験がない人は、何がわからないかをうまく語ることができない。
できない領域をよく理解していない人物は、できることとできないことの境界線があやふやで、できることに対してもうまく語ることができないのです。
一方、経験値が高い人は「わからないこと」を語ることができる。
それは「自分はここまではわかる」という境界を明確に自覚できているからである。
信頼に足る人物は「できないこと」を語ることができる人だと思います。経験値の高い実践者は、こういうときはなかなかむつかしい、という困難の閾値をよく心得ています。
困難の閾値をよく知っている人物は、できることについて明確な自覚ができているのです。
さらに「わからない」と言うためには十分な知識だけでなく、自信をもっていなければならない。
「わからない」と白状するのは嫌なもの。
それでも自分の知識に自信があるからこそ、にこやかに「わかりません」と言えるのである。
「わからない」と白状するのは嫌なものです。
けれども実は、いちばん優秀でいちばん知識のあるドクターこそが「あ、それは知らないな。誰か教えてくれる?」と平気で医学生や研修医に質問していたのです。
まとめ
わからないのは悪いこと。
これまで受けた学校教育ではそう習ってきたように思う。
医者になってからも、その気持は変わらなかった。
しかし自分の価値観が変わったのは、ある臨床の疑問について上級医に質問をしたときのことだった。
そのとき返ってきた答えは「わからない」。
経験も知識も豊富な上級医が平然と「わからない」と口にしたことに対して、私は衝撃を受けた。
わからないことは恥ずかしいことだと思い込んでいたが、上級医を馬鹿にするような気持ちは一切わかなかった
感じたのは「この先生がわからないんだから、誰にもわからないことなんだな」ということだった。
わからないのは恥ずかしいことではなく、わからないと認識できることが重要。
現時点でできることはすべてやっているという自信があれば、腰を据えてじっくりと治療に向き合うことができる。
自分も自信をもって「わからない」と言える医師になりたいものである。
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