小説形式という奇抜な医学書「仮病の見抜きかた」を読んだ。
以前紹介した「ニッチなディジーズ」を書いた國松淳和先生の著書である。
総合診療科の醍醐味は、一見不定愁訴に見える身体疾患を見つけ出すことだと思っていた。
「誰もわからなかった病気を診断した俺スゲー」みたいな。
でも実際は身体疾患は隠れていなくて、ただの不定愁訴だったということが多いだろう。
そんな病気なのか病気じゃないのかわからない、グレーゾーンの患者にスポットライトを当てたのが「仮病の見抜きかた」である。
白黒はっきりしない病態
この小説は不定愁訴を扱っているが、解決策が提示されるわけではない。
クライマックスもカタルシスもない。
そのため、それぞれのエピソードの読後感はどうもスッキリしない。
白黒はっきりさせられない病態というのはよくある。
辛い気持ちになるのは、病気か病気じゃないかを考えなくてはならない時である。
人間の身体はグレーゾーンだらけだ。
でもそれが現実の臨床をよく表しているような気がする。
診断がついて劇的に症状が改善とか、難易度の高い手術が成功してみんなハッピーとか、カタルシスのあるお話は、現実にはほとんど存在しない。
一生懸命に向き合っても、その熱意や誠実さに見合った成果が期待できるとは限らない。
また答えがないためマニュアル化もできず、無力感を感じたり、どうもスッキリしないというケースも多い。
あえて小説の形をとったのもそのあたりが理由なんだろう。
医師には病気を早期に見抜き、診断し、治療につなげるという職責がある。
その一方で、それらをすべて尽くしても患者の思いや願いとはかけ離れてしまうことがある。
医師としてのベストを尽くしても患者の理解が得られないときの、あの独特の無力感みたいなもの。
枠組みから外れた患者
「不定愁訴が得意!」という人はあまりいないだろう。
診療時間外に頻回受診したり、緊急性がないのに救急車を呼んだり、コミュニケーションが成り立たなかったりして、迷惑がられていることも多いと思う。
そして身体疾患ではないと分かっても解決しないところにも難しさがある。
検査→診断→治療というのが一般的な医療の手順である。
しかし不定愁訴は「検査に異常がなかったから大丈夫」と説明しても納得してもらえない。
我々はそんな医療の枠組みから外れてた人たちをどう扱ってよいかは習ってこなかった。
皮膚科で同じように感じるのがアレルギー診療である。
「自分はアレルギーに違いない」と思い込んでいる患者がときどきいる。
プリックテストやパッチテストを行っても、結果は陰性である。
普通の検査では「異常がなかった」といえば患者は安心するものだ。
「異常が無くてよかったですね」で外来はハッピーに終わる。
ところがこの場合「検査に異常がなかったから大丈夫」と説明しても納得してもらえず、後味悪く外来を終えることになる。
それが自分がアレルギー診療を苦手とする理由である。
不定愁訴を診るコツ
自分は昔、精神科に興味を持っていた時期がある。
しかし実際に現場をみてみると「ちょっと違うかな」という違和感を抱いた。
精神科医学自体は非常に興味深かったのだが、実際に問題になるのは社会背景であったり家族関係であったり、ということが多い。
家が汚いとか、お金がないとか、家族のDVとか、子どもが引きこもりとか。
医学はこれらの問題に対しては無力で、生活環境とか家族関係とかに介入しないと解決しない場面が多かった。
精神科医・春日武彦先生はこれを「家族をユニットとして捉えて治療する」と表現されている。
精神科医となり、患者個人のみならず家族をユニットとして捉えて治療を行うようになった。
そこで精神科は医療より社会福祉の仕事がメインなのかな…と思ってしまう。
自分は科学に興味はあるが、家族関係の修復とかの社会背景にはあまり興味が持てないことがわかり、精神科の道に進むことはなかった。
でもそんな部分に興味を持てる感性があれば、不定愁訴も含めてもっと臨床を楽しめるのかもしれない。
まとめ
この小説では、患者の背景にある問題やストレスに思いを馳せることの面白さみたいなものが描かれている。
一筋縄ではいかない難しさを楽しめるような感性が、國松先生にはあるようだ。
臨床医は、病気を持つものの人生や人生観に触れられる奇異な職業だなとあらためて思った。
そういう感性が不定愁訴を診るために必要な能力なのだろう。
いろいろ考えさせられる本なので、興味のある方は手に取ってみて欲しい。
國松淳和先生の書評まとめ
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