かつて自分にも基礎研究を行っていた時代があった。
色々なことを学べる良い機会であり、研究に関するポジティブな側面を記事にした。
しかし今は研究には携わっておらず、その理由も記事にした。
今回は研究をやめた理由についてもう少し詳しく書いてみたいと思う。
勉強より研究
コンピューター研究者の落合陽一先生は、これからの時代は「勉強よりも研究が重要だ」と述べている。
新しい問題を発見して解決するのは、「勉強」ではなく「研究」です。勉強と研究の違いを知ることはきわめて重要なキーワードだと思います。
今はインターネットによって一瞬にして情報がシェアされる時代。
既存の知識をたくさん知っていることの価値は下がってしまった。
そのため既存の知識を学ぶ「勉強」ではなく、新たな価値を創造する「研究」の重要性が増す。
我々は教科書を読む側ではなく、書く側に回る必要があるわけだ。
なるほど。じゃあやっぱり研究することには価値があるんだなと考えたくなる。
しかし自分が行ってきた研究は本当に新たな価値の創造だったのだろうか。
阿倍野の犬実験
iPS細胞の山中教授によると「阿倍野の犬実験」という言葉があるそうだ。
阿倍野とは、大阪市立大学医学部がある大阪市阿倍野のこと。
アメリカの研究者が、アメリカの犬は頭を叩いたら「ワン」と吠えたという論文を発表する。
すると日本の研究者は、日本の犬も頭を叩いたら「ワン」と吠えたという「日本の犬実験」の論文を書く。
さらにひどい研究者は阿倍野区の犬を調べてやはり「ワン」と吠えたという「阿倍野の犬実験」の論文を書く。
そういう誰かの二番煎じ、三番煎じの研究はするな、というのが「阿倍野の犬実験はするな」という言葉の意味である。
これは「銅鉄研究」と呼ばれることもあるそうだ。
自分の行っていた研究を思い返してみると、まさにこの阿倍野の犬実験に終始していたように思う。
疾患Aで、分子Xが重要な働きをしていることが発見された。
じゃあ疾患Bで、分子Xの発現を調べてみよう。
さらに疾患Cではどうだろうか。
そんな研究ばかりだったのだ。
残念ながら落合陽一先生の言う新しい価値の創造はできていなかった。
自己顕示欲を満たすための研究
多くの人にとって研究をする理由は何なのだろう?
哲学者・中島義道の著書「人生を半分降りる」の中に、学者について書かれている部分がある。
世の中には、名誉心から研究を行っている研究者が多いのだという。
学者たちの内部では名誉を求める壮絶な戦いがくりひろげられるのです。
だいたい学者は学力戦争に勝ちつづけてきた人が多い。そのため他人に負けることに耐えられない人、その裏返しとしての名誉心の強い人が多い。
実際、純粋な医学への探求心をモチベーションに研究を行っている人は、自分のまわりにはいなかったように思う。
学位→留学という医者の王道キャリアについて書かれた本に、こんな記載がある。
博士号や留学経験などの肩書きを得るのは自分に興味をもってもらうため。
専門医、博士号、留学経験などのわかりやすい肩書きがあってこそ、人はあなたの能力に興味をもち認めてくれる。
特別な存在になるために特定の分野で研究業績を上げる。
特定の分野の研究業績があれば専門家とみなされる。
何かひとつの専門分野を決めて突き詰めること。それによって「特別な医師」として患者、他の医師から頼られる存在になれるのである。
要するに研究を行うのは、出世して自己顕示欲を満たすためということである。
そんなキャリアも悪くないだろう。
しかし俗な欲求を満たすために阿倍野の犬実験を繰り返すことに、自分は意味を見いだせなくなってしまったのだ。
研究に重要な人脈力
また研究をやってみて気づいたのは、一番必要な能力は創造力ではないということ。
自分だけでできる仕事なんてたかがしれている。
重鎮の先生方に顔を覚えてもらい、仲良くなるのが研究で一番大切なことで、そう指導もされた。
学会で一番重要なのは懇親会なのだ、と。
著名な研究者はみんなコミュニケーション能力が優れていた。
孤高の研究者なんて人は存在せず、人脈を広げるのが好きな人でないとやっていけない。
アカデミアとは新しい価値を創造する場ではなく、どれだけ人脈を広げていくかを競うゲームだったのである。
大事なのは偉い先生に名前を覚えてもらう人脈力。
たいした業績も残せなかった自分は、そんな世界にも魅力は感じられず研究から身を引いたのだった。
まとめ
研究から得たことは大きいが、続けていくモチベーションはわかなかった。
哲学者・中島義道は、自分の「能力」と「仕事」を見限ることを推奨している。
自分のように阿倍野の犬研究を続けて行き詰っている人は、一度冷静に考えてみるのもいいかもしれない。
まあ自分の能力不足の言い訳でもあるんだけど…。
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