「アルジャーノンに花束を」という有名な小説がある。
主人公は知的障害をもつチャーリー。
彼はあるとき知能を上昇させる脳手術を受ける。
手術は成功して天才になるが、周囲との軋轢に苦しむ…という話である。
この小説の特徴は日記形式で書かれていること。
そのためチャーリーの知能が上昇していく過程をリアルに体験することができるのである。
バイオハザードの「かゆうま日記」もこの小説がベースになっているのかもしれない。
「アルジャーノンに花束を」の内容は自分に深く刺さる。
その理由は、チャーリーの姿が自分の過去とオーバーラップするからである。
今回はこの小説について考えてみたい。
賢くなる過程
友人たちに囲まれて幸せに過ごしていたチャーリー。
みんなぼくの友だちでみんなぼくのことを好きなのです
だが自分が賢くないことは理解しており、賢くなりたいと願っている。
かしこくなりたくてばかわいやで
みんなみたいに頭がよくなりたい
そんなチャーリーが手術によって念願の知能を手に入れることができた。
しかし知能が上がるにつれて、友達と思っていた人間が実は自分を笑いものにしていただけなのだと気づく。
ジョウやフランクたちがぼくを連れ歩いたのはぼくを笑いものにするためだったなんてちっとも知らなかった
もうみんなに笑われるのはたくさんだ。うんざりだ
似たようなことを自分も幼少時代に感じた記憶がある。
早生まれ
早生まれは幼少期に体格や学力に差が出やすいと言われている。
自分は早生まれなのだが、幼稚園のときは自分だけ文字の読み書きができず、「可哀そうな子」という立ち位置だったように思う。
自分が他人より劣っているということは強く自覚させられていたが、構ってくれる友人はいて、それなりに幸せに過ごしていた。
そしてそれらの差は、成長するに従って次第に縮小していく。
小学生になると周りとの学力の差はなくなり、むしろ優秀な部類に入っていった。
その過程で、かつて構ってくれていた同級生は友人ではなく、ただ笑いものにされていただけなのだと悟ったのだった。
この体験がチャーリーの姿とオーバーラップするのである。
早生まれの差は本来縮小するはずだが、学歴から生涯収入にまで差が残るという研究があるそうだ。
その理由として考えられているのが劣等感。
幼少期に感じた劣等感がその後の学習意欲などに影響を与え、その後の成績差ひいては最終学歴の差に帰着してしまっている可能性が考えられている。
自分は幸い成績差にはつながらなかったと思うが、いまだに劣等感を抱えているのは間違いない。
まとめ
「アルジャーノンに花束を」では手術の効果が徐々に失われ、チャーリーは元の知能(あるいはそれ以下)に戻ってしまう。
そんな運命を静かに受け入れる姿が感動を誘うとされている。
しかし自分はあまり感動はできなかった。
リアルに描かれる「知能が失われていく過程」がとても恐ろしかったからである。
もし昔の状態に戻ってしまったら…。
自分が恵まれた環境にいながら、いまだに鬱屈を抱えている原因はそのあたりにあるのかもしれない。
ということを久々に小説を読み返してみて考えた。
次回は小学生以降の経過について書く予定。
つづく
コメント