昨年大ヒットした映画版スラムダンク。
そのメイキング本を読んでいると興味深い記載があった。
作者の井上雄彦先生はこれまで、自分の作品について説明しないように心がけてきたそうだ。
しかし今回の映画製作に当たって言語化を迫られ、そこに葛藤があったとのこと。
思考を言語化することのメリットはこれまでにいくつか記事を書いてきた。
しかし今回は言語化の落とし穴について書いてみる。
マンガと映画の違い
マンガと映画の大きな違い。
それは自分一人で完結するマンガに対して、映画は他人に絵を描いてもらう必要があるということ。
つまり映画の制作では作品の意図を他人に事細かく説明していかなければならない。
マンガは自分の書いた絵が載りますが、映画を作ってもらった絵が流れる。
そして作ってもらうためには、自分の作品を事細かく説明する作業を延々と続けなければなりません。
たとえば「このシーンでは、このキャラはこんな感情で…」という具合である。
このシーンはこういう感情でどう表現したいからこういう風に描いている、温度感はこのくらい…。ひとつひとつ全部解説する
井上先生は、これまで作品の言語化を避けていたそうだ。
これまで周囲に自分の作品の仔細を説明すること=「言語化」は拒絶していたことだった。
その理由はマンガを描く感性が失われてしまうかもしれないから。
井上先生は直感を武器にして作品を生み出してきた。
セオリーや基本みないなものを知らずに、ほぼすべて直感でやってきた。
直感だけを武器に、心身を差し出して描く。
もし言語化してしまうと、その直感が失われてしまうのではないか。
しかし今回、それを言語化して分析することで直感が失われてしまったそうだ。
予想通り、自分の中でロジック=言語化が占める割合が増えれば、センス=直感の割合は減ってくる。
直感の部分は、確実に死んでいくだろうなというのは感じています。だから、もし今マンガを描いたら以前のようには描けなくなっているかもしれない。
このように言語化には負の側面も存在しているのである。
それは医者の仕事においても例外ではないだろう。
名医の経験知
このあたりのことは内科医のmedtoolz先生がかつてブログで述べていた。
いわゆる名医と呼ばれる人たちは「経験知」を持っている。
スキルを習得している人間は何事かを“知っている”はずだが、しばしばそれは“記述不能な知識”になっている。こうした知識を暗黙知(経験知)という。
その経験知は言語化することはできない。
経験知は、教科書や授業を通じて得ることが出来る記述可能な知識とは異なっている。
経験知は、それを得た人の体験と密接に結びついている。経験を通して得た知識は、「なぜそうなったのか」の知識化を経ないで経験者の頭に蓄積されている。
一番重要なところを直感的に適当にやれるからこそ、うまくいっている。
それを無理やり言語化しようとしても、なかなかうまくいかないようだ。
技術というものは、それを持っているエキスパート本人には説明不可能なもので、それを無理やり言語化しようとすると、何か大切なものが失われてしまう。
一番大事なところを「適当」にやれるからこそ、エキスパートはエキスパートでいられるのだけれど、「適当」を言語化する過程の中で、確率論は決定論におきかえられる。
したがって名医の技術を他人が学ぶのは極めて難しいのである。
まとめ
井上先生は映画の制作で直感は失われてしまったが、得るものもあったそうだ。
直感だけではいずれどこかで行き詰ってしまう。
今回の映画で自分の感覚を言語化し客観視することは次の段階に進むために必要であった、と。
でも直感だけではこの先もたないとも感じていた。だから今回やった言語化で新たに学んでいることもあるんです。
診療においても、より高いレベルに進むためには言語化が必要なのかもしれない。
ただし言語化は極めて難しく、うまくできているかの検証が必要不可欠とmedtoolz先生は述べている。
どうして自分は上手くいっているのか、それをまずは自分なりに言語化して、今度は言語化されたその手続きを実際に行ってみて、言語化が正しく行われているのかどうかを検証する。
そこまでやって、たぶんはじめて、「役立つ努力の1サイクル」というものが完結する。
さらにその過程で直感が失われ、診療がヘタになってしまう可能性もある。
史上最高のゴルファーとも称されるプロゴルファーのジャック・二クラス。
彼はゴルフの指南書を書いた後に極度のスランプに陥ったそうだ。
ゴルフの帝王ジャックニクラウスは、かつてゴルフの指南書を書いたことがあった。それは本人も満足のいく完璧な仕上がりだったけれど、それを書き上げた後の一年間、帝王は極度のスランプに苦しんだのだという。
一筋縄ではいかない挑戦であることを覚悟しておく必要がありそうだ。
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