高齢化の進む地方で救急当直をやっていると、施設入所中の寝たきり高齢者が「熱が出た」といって救急車でやって来ることが多々ある。
肺炎だったり尿路感染症だったりで、診断がついたら各科の先生方が引き取ってくださるので助かっている。
(原因がわからなかったら皮膚科に入院となるので恐怖ではあるが)
でも、そういう患者で病棟が埋め尽くされていくのをみると、どうなんだろうと思う。
以前の記事「研修医になる前に読むべき本」で里見清一先生の本を紹介した。
今回は里見先生の新書「医者とはどういう職業か」から高齢者医療について考えてみた。
医者とはどういう職業か
今、「意思表示のできない寝たきり高齢者にどれだけの医療資源を投入するのか」ということが問題になってきている。
現代の医療は、もともと寝たきりの痴呆老人の肺炎を治療し、もとの寝たきりに戻すのであるが、それが医療としてどれほどの意味を持つのであろうか。
むしろ重要なのは寝たきり老人が安楽に予後を過ごし、苦痛なく最期の時を迎えることであろう。
高齢者を見捨てていいというわけではないが、医療費は限られており無尽蔵に使えるというわけではない。
高齢者が増えればどこかで線引きをする必要が出てくる。
超高齢化の先に待っているのは、当然のことながら多くの人間が死ぬ社会である。日本国は溢れる高齢者を「助けよう」とすることはできなくなる。
私は医者が「病気を治す」「人を助ける」存在である、というのは、たぶんあと10年くらいではないかと予想している。
その後は「いかに死なせるか」が最重要任務になるだろう。
「人を助ける」ことではなく「人を死なせる」ことが医者の仕事になるというのはショッキングである。
しかし総合診療についての記事でも書いたが、高齢化社会の医療の最前線をみていると、これは間違っていないと思う。
敗戦処理の美学
高齢化の進む田舎では「自分が患者を治したんだ」というカタルシスを得られる状況は多くはない。
実際に医者は「治す仕事」より「看取る仕事」の方が主になってきている。
この傾向は今後都心にも広がっていくだろう。
だからといって「やりがい」がないわけではないようだ。
私自身、ずっと癌の医者をやっていて、圧倒的多くの患者さんは癌で亡くなる。それをいかにして見送るかというのは重たい任務ではあるが、苦役というわけではない。
またシアトルの大学病院では「ICUで無事生還した患者の家族よりも、死亡した患者の家族の方が満足度が高かった」という報告もあるそうだ。
里見先生は自分の仕事を「敗戦処理」と呼ぶニヒルなところもあるが、美学を持って仕事をされている。
医者は「治す仕事」という所から発想を変えなければいけない時期に来ているんだと思う。
でも実際の医療現場はこれと逆行して、過剰医療を推奨する流れもあるようだ。
つづく
次回>>赤字病院の生き残り戦略について
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